1803年(享和3年)江戸時代後期の始め 観音講中から寄進される。観音講中とは観音様をお慕いしている一同という意味である。
馬頭観音は通常、憤怒の像である。なぜならば、馬とは古来よりあの世とこの世とを繋ぐ乗り物であり、この世の苦しみ、因縁をあの世に持って行かないため、断ち切るために恐ければ、恐いほど御利益が、あると言われている観音像である。(右図参考)
しかし、ここ観音の里の馬頭観音は、笑っている。私には笑っているように観える。こんな馬頭観音は、日本中探してもここしか無い。石仏に書かれている「観音講中主願」の主願の内容をしばし考えあぐねる。「おらたちは、今とっても幸せだ。こんな幸せがずぅーと続きますように」と言った意味だろう。まさに幸せの馬頭観音なのである。
この馬頭観音が寄進された1803年(享和3年)の時代背景は、江戸時代後期、「泰平の世」を謳歌してきた江戸時代も後期になると、財政的に逼迫してくる。1832年から始まる天保の大不況を控え、都市を中心とする庶民文化は繁栄するが、農村では不況のため、一揆が頻繁に行われる。とこの様な時代背景の中で、伊平観音の里 松山観音堂 馬頭観音は誕生を見るのである。
不況の中で、繰り返すが「おらたちは、今とっても幸せだ。こんな幸せがずぅーと続きますように」である。なぜこんな幸せでおれるのか・・・・・・
そして一つの言葉に出会う
「空しく生きて、満ちたりる」
である。空しく生きるとは、子供の時みたいに生きるということである。子供のころ、誰しも、地位欲は無い、名誉欲も無い、見栄なんか張らない、もちろん物なんか無くても、とっても幸せだった。ということである。
瀑岩山とは、古代、ここが、激しく落ちる滝の岩山であった様子を表す。また、清水寺とは、聖地を表す言葉である。
役行者(えんのぎょうじゃ)像この形の役行者像は、ここ観音の里と奈良盆地にしか無い。いつ創られたのか現在、年代不明である。
役行者とは、役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、634年(舒明天皇6年)伝 - 706年(慶雲3年)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。
実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。通称を役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。修験道者とは、身も心も「空」を得るために、滝に打たれたり、断食したりと荒修行する者のことである。小乗仏教の教(おしえ)の中では、こうした荒修行をして「空」を得るとされた。
※「空」(くう)とは欲を取り去った後の心境のことである。
1696年(元禄9)酒屋惣左衛門他から寄進された。千手観音とは利他行をする者を表す。利他行とは、人を助ける行いをするという意味である。
人は「空」を得ることは、荒修行を積んでも、余程の聖者でないかぎり、たいへん難しい。
そこで仏教では、誰でも「空」を得られるために、大乗仏教の教えの中で、利他行をすることを考えた。人を助ける行いをすることで、「空」を得て、そして真に強き人へと生まれ変わる。
見ろ 利他行をし、「空」を得て、凛とした真に強き青年の姿を
伊平観音の里、千手観音菩薩像の話をしている。2番目の両手で腹のあたりで抱えている玉を宝珠(ほうじゅ)という。清い心を得ている状態を表す。ここの千手観音菩薩は准胝(じゅんてい)観音である。千手観音は准胝観音が多い。准胝観音とは母なる女性を表す。「まずは、女性が重要である」との意味をかいま知ることができる。
菩薩とはりっぱな人になりたいと思って、日々、努力している人を言う。だから、努力する人はみんな菩薩である。
昔、この里の子供たちに、「君たちは、大きくなったら、どんな職業に就くんだね?」と大人の人が問うと、子供の多くは、こう答えた「わたし(ぼく)は、将来、人の役にたつ職業に就きたいです。」と・・・
まさに、観音の里は、菩薩の里だった。
1788年(江戸時代中期の終わりごろ)、初山 宝林寺の当時の住職、法源禅師が創った和讃が、清水寺に今も残る。
「うつしてはここに都の清水の 寺はたやせぬ滝清水かな」
昔、ここに都(パラダイスの地)を移し、滝清水の地に清水寺が置かれていた。この寺を絶やしてはならない。という意味である。
この十一面観音は等身大の木仏像で行基が創ったとされるものである。
仏教は「空にはじまり円で完成をみる」円とは、共生を表す。人は、「空」に臨みて清い心になり、そして共に生きるということである。
観音の里 十一面観音像の十一面は人の共生している姿を表す。また、左手に持っている壺のような物は、清水を表す。
人は、頭のよい人、優しい人、義の人、信の人、勇気ある人、といろいろある。それから男性と女性、(仏教の教えでは女も男も平等である)それらに優劣の区別はなく、共に生きて、幸せの処になる。という意味である。
自然界は、全て共生で成り立っている。細胞は、ミトコンドリア、リボソーム、小胞体、などいろいろな小器官が円を描く様に、共生して成り立つ。食物連鎖にしても、円をえがくように共生している。菌類、カビ類に至っても、動植物にとって重要な共生する生き物である。人が共生し支えあうのは、あたりまえのことかもしれない。
古来より、観音の里 仏坂 十一面観音を里人(特に伊平3区の里人)は命懸けで守ってきた。
1572年(元亀3)武田信玄と徳川家康が、戦ったとされる、「三方ヶ原の戦い」の前哨戦で、「仏坂の戦い」が伊平観音の里、仏坂で行われた。里は戦火で焦土と化したとされる。この際、十一面観音を戦禍より守るべく、事前に仏像の置かれていた仏坂から細江町気賀の「観行院」に一時移動した経過がある。
また、明治七年(1874年)から始まった神の国の再興、そして排仏毀釈政策(神仏分離令を出し、寺院、仏像、経文などを壊す)は凄まじく、里人は十一面観音を必死に守り抜いた。
1788年(江戸時代中期の終わりごろ)、初山 宝林寺の当時の住職、法源禅師が創った和讃が、仏坂 竹馬寺に今も残る。
「重くともかろく登れや仏坂 四方浄土を目の前に見て」
もうじき、幸せの処が出現する。幸せの処を出現させることは、大変なことだが、さっさと行え。仏坂 十一面観音の様に。という意味だ。
1671年(寛文11)江戸時代初期の終わりごろ、この仏像は、今泉正武氏より寄進される。 当時、この地域を納めていたのは、近藤家、その家老が今泉氏である。今泉氏の住居は、 現在の国道257号線沿いで引佐町伊平と引佐町花平の境にあったとされる。
近藤家の菩提寺は、初山 宝林寺(現 細江町中川 引佐町金指から都田へ至る国道362号線道沿い)であるが、その初山系の石仏である。
1788年(天明8)初山宝林寺の当時の住職 法源禅師の創った和讃が、松山観音堂に今も残る。
「松山の風にうきよの塵もなし きよき音こそ観自在なれ」 である。
時が過ぎ、人の心がどんなに移りゆくとて、ここ松山では、いつも、どんな状況でも、変わらぬ清き心の観音様が見守っている。という意味である。
ありがたい観音様である。