浜松市北区引佐町井伊谷の町をぬけ、国道275号線を北へ、しばらく車を走らせること5分、伊平観音の里が現れる。春には、木々の新芽が吹き、新緑の色合いであり、秋になると、赤く染まる、山の景色を眺め、滝清水を過ぎ、大きく左にハンドルをきると、街中に入る。国道を添うように川幅10mの伊平川が流れ、川を挟んで道と反対岸、右手に桜並木見て、さらに北へ200m、伊平駐在所を、左に曲がる。国道を離れ、旧道 奥山久留女木往環道を西へ走り、ちょうど国道を往来する車の音が聞こえなくなった地点の山裾に、この寺は存在する。臨済宗 禅寺「再香山 長興寺」である。
寺の前を流れる小川、夏には蛍が舞いかい、運が良ければカワセミが飛ぶ様子を観ることができる小川に、掛かる橋を渡り、寺の駐車場に車を止め、楠木で造られた寺門の前に立つ。
まず、目に飛び込むのは、寺門の左側にある「子供の守り仏」とされる地蔵菩薩の像である。六地蔵菩薩と中央の今にも助け出そうとする一菩薩だ。1700年頃(江戸時代中期の始め)に置かれたとされる。さらにその左側に1788年(江戸時代中期の終わりごろ)、当時、初山 宝林寺住職であった法源禅師の創った和讃が書かれた石碑が見られる。
「長く興る寺こそ いずれ優曇華(うどんげ)の再び香る山は 藐姑射(はこや)ぞ」
「再香山 長興寺」の名前の由来となった和讃である。
古代、この寺は、聖王が住んでいた処であり、いずれまた現われるであろう。という意味である。
※ 優曇華とは仏教経典では、3000年に一度花が咲く架空の花のことであり、その時に「金輪王」が現世に出現するという。「金輪王」とは、古代インドの思想における四大陸も納める理想的な王を指す概念である。
※ 藐姑射の山とは、正確には「ハクコヤノヤマ」または「ハルカナルコヤノヤマ」と読む。本来の意味は上皇・法皇の御所を指す言葉とされる。
「再香山」と書かれた、寺門を一歩くぐると、正面に、本堂への玄関、簡素であるが趣のある玄関と、ちょっと左寄りに除夜を待つ吊鐘が、目に飛び込む。ここは、毎年大晦日深夜から元旦早朝にかけてこの吊鐘を突く里人で賑わう。
しばらく、寺の境内を歩くと、禅寺らしい静寂な、空気に包まれる。玄関へと進む小道の両側には十数体の羅漢像が置かれている。愛らしい羅漢であり、いろいろな仕草をしている。
{禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉に釈迦の正法が直伝されたことを重視して、釈迦の弟子たちの修行の姿が理想化され、五百羅漢図や羅漢像が作られ、正法護持の祈願の対象となった。仏の指示を受けて永くこの世に住し衆生を済救(困っている人、苦しんでいる人を救うこと)する役割をもった者が羅漢であるとされる。}そして、本堂 玄関の前に立つ。靴を脱ぎ、左戸を開けると、すぐに、目の前に、小堀遠州を思わせるような庭の景色が現れる。渡り廊下へと上がり、右手に庭を観ながら本堂へと進む。 ついに本堂中央に立つと、そこに聖観音菩薩が居られる。(聖観音菩薩の説明へ)
南無観世音菩薩
長興寺の「空」への体験では、呼吸法の練習をします。呼吸とは、息を吸い、吐くことですが、禅では、息を吐くことを重要視します。人は、大きなストレスに遭うと、力んで頑張り、乗り切ろうとします。すると呼吸が荒くなり過呼吸のような状態になる。そして自律神経が乱れ、妄想さえ浮かぶ、不眠症にもなる。集中力が無くなり、正確な判断ができなくなる。ついには、頑張れなくなります。だから、まずは呼吸を整える。そして「空」の状態を創る。その時の精神状態は「明日は明日の風が吹く」です。(色即是空) そうすると逆に頑張れる(空即是色)。集中力が増し、正確な判断ができるようになります。
呼吸法は、一、二、三・・・・・とゆっくり、腹から息を大きく吐きます。すると自然と息が体内に入ってきます。足の組み方、両手の組み方は、より長時間、座禅ができる姿勢として、古来から、伝わっていますが、気にする必要は無いと思います。最低30分、長興寺の庭を前に観て、香を聞き、鳥の声、虫の音、など自然のシンフォニーを感じながら、禅を組みます。至福の一時をお過ごしください。
この呼吸法をマスターするため、家に帰っても、訓練します。テレビを見ている時も、寝る前の時間でも、訓練します。そして、いずれ、初心に戻るために、長興寺で再び禅を組みます。
「空」への案内は、長興寺、住職がお手伝いします。いつでも寺へ、お寄りください。
※ 「色即是空」「空即是色」はいろいろな解釈の仕方があるが、ここでは、「色(今生きている現実世界の意識)は、その途端に空(空っぽになる)」「空(意識を空っぽにすると)その途端に色(新しい意識の世界が始まる)」の解釈を採る。